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Kyuhanjo (Conditions in an Old Feudal Clan)(旧藩情)

by Fukuzawa Yukichi(福沢諭吉)



English translation (by Carmen Blacker):

http://www.jstor.org/sici?sici=0027-0741(1971)26%3A3%2F4%3C319%3AKTORPD%3E2.0.CO%3B2-B





   旧藩情緒言《しょげん》

一、人の世を渡るはなお舟に乗《のっ》て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を與《とも》にすといえども、動《やや》もすれば自《みず》から運動の遅速《ちそく》方向に心付《こころづ》かざること多し。ただ岸上《がんじょう》より望観《ぼうかん》する者にして始《はじめ》てその精密《せいみつ》なる趣《おもむき》を知るべし。中津《なかつ》の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居《い》てかえって自《みず》からその動くところの趣《おもむき》に心付かず、不知不識《しらずしらず》以て今日に至りし者も多し。独《ひと》り余輩《よはい》は所謂《いわゆる》藩の岸上に立つ者なれば、望観《ぼうかん》するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊《いささ》かその望観のままを記《しる》したるのみ。
一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態《じょうたい》を記《しる》したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士《じょうし》と下士《かし》との軋轢《あつれき》あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害|栄辱《えいじょく》を與《とも》にして、公共のためを謀《はか》る者あるを聞かず。故に世上|有志《ゆうし》の士君子《しくんし》が、その郷里の事態を憂《うれえ》てこれが処置を工夫《くふう》するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。
一、旧藩地に私立の学校を設《もうく》るは余輩《よはい》の多年|企望《きぼう》するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄《ぶんろく》と旧官員の周旋《しゅうせん》とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡《せいせき》を以て見れば未《いま》だ失望の箇条もなく、先ず費《ついや》したる財と労とに報《むくい》る丈《だ》けの功をば奏《そう》したるものというべし。蓋《けだ》し廃藩以来、士民が適《てき》として帰《き》するところを失い、或はこれがためその品行を破《やぶっ》て自暴自棄《じぼうじき》の境界《きょうがい》にも陥《おちい》るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立《ふきどくりつ》の景影《けいえい》だにも論ずべき場所として学校の設《もうけ》あれば、その状、恰《あたか》も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明《めい》を取るに足《た》らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻《ただ》に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。
 余輩《よはい》常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設《もう》けて様々のことに財を費し、様々の憂《うれい》を憂《うれえ》て様々の奇策《きさく》妙計《みょうけい》を運《めぐ》らさんよりも、むしろその財の未《いま》だ空《むな》しく消散《しょうさん》せざるに当《あたり》て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私《わたくし》のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望《きぼう》すること切《せつ》なれども、誰に向《むかっ》てその利害《りがい》を説くべき路《みち》を知らず。故に今この冊子を記《しる》して、幸《さいわい》に華族その他有志者の目に触《ふ》れ、為《ため》に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚《こうじん》というべきのみ。
一、維新《いしん》の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人《こんじん》の目撃《もくげき》するところにして、これを記《しる》すはほとんど無益《むえき》なるに似《に》たれども、光陰《こういん》矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧《かえりみ》て明治前後日本の藩情|如何《いかん》を詮索《せんさく》せんと欲するも、茫乎《ぼうこ》としてこれを求《もとむ》るに難《かた》きものあるべし。故にこの冊子《そうし》、たとい今日に陳腐《ちんぷ》なるも、五十年の後には却《かえっ》て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。
   明治十年五月三十日                                                           福沢諭吉 記


  
     旧藩情《きゅうはんじょう》


  旧|中津《なかつ》奥平《おくだいら》藩士《はんし》の数、上《かみ》大臣《たいしん》より下《しも》帯刀《たいとう》の者と唱《となう》るものに至るまで、凡《およそ》、千五百名。その身分役名を精細に分《わか》てば百余級の多きに至れども、これを大別《たいべつ》して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組《こしょうぐみ》より大臣《たいしん》に至り、下等は祐筆《ゆうひつ》、中小姓《なかごしょう》[#ここから割り注]旧厩格[#ここで割り注終わり]供小姓《ともごしょう》、小役人《こやくにん》格より足軽《あしがる》、帯刀《たいとう》の者に至り、その数の割合、上等は凡《およ》そ下等の三分一なり。

 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆《ゆうひつ》と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明《あきらか》に上下両等の間に分界を画《かく》すべき事実あり。すなわちその事実とは、

 第一、下等士族は何等《なんら》の功績《こうせき》あるも何等の才力を抱《いだ》くも、決して上等の席に昇進《しょうしん》するを許さず。稀《まれ》に祐筆などより立身して小姓組に入《いり》たる例もなきに非ざれども、治世《ちせい》二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、その下等中の黜陟《ちゅっちょく》に心を関して昇進を求《もとむ》れども、上等に入るの念は、もとよりこれを断絶して、その趣《おもむき》は走獣《そうじゅう》あえて飛鳥《ひちょう》の便利を企望《きぼう》せざる者のごとし。また前にいえるごとく、大臣と小姓組との身分は大《おおい》に異《こと》なるがごとくなれども、小姓組が立身《りっしん》して用人《ようにん》となりし例は珍《めず》らしからず。大臣の二、三男が家を分《わか》てば必ず小姓組たるの法なれば、必竟《ひっきょう》大臣も小姓組も同一種の士族《しぞく》といわざるを得ず。

  また下等の中小姓《なかごしょう》と足軽《あしがる》との間にも甚《はなはだ》しき区別あれども、足軽が小役人《こやくにん》に立身してまた中小姓と為《な》るは甚だ易《やす》し。しかのみならず百姓が中間《ちゅうげん》と為《な》り、中間が小頭《こがしら》となり、小頭の子が小役人と為れば、すなわち下等士族中に恥《はず》かしからぬ地位を占《し》むべし。また足軽は一般に上等士族に対して、下座《げざ》とて、雨中《うちゅう》、往来に行逢《ゆきあ》うとき下駄《げた》を脱《ぬ》いで路傍《ろぼう》に平伏《へいふく》するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢《あ》えば下座《げざ》平伏《へいふく》を法とす。啻《ただ》に大臣のみならず、上士《じょうし》の用人役《ようにんやく》たる者に対しても、同様の礼をなさざるを得ず。また下士《かし》が上士の家に行けば、次の間より挨拶《あいさつ》して後に同間《どうま》に入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むを法とす。

  また文通に竪様《たてざま》、美様《びざま》、平様《ひらざま》、殿付《とのづ》け等の区別ありて、決してこれを変ずべからず。また言葉の称呼《しょうこ》に、長少の別なく子供までも、上士の者が下士に対して貴様《きさま》といえば、下士は上士に向《むかっ》てあなたといい、来《き》やれといえば御《お》いでなさいといい、足軽が平士《ひらざむらい》に対し、徒士《かち》が大臣《たいしん》に対しては、直《ただち》にその名をいうを許さず、一様に旦那様《だんなさま》と呼《よび》て、その交際は正《まさ》しく主僕の間のごとし。また上士の家には玄関敷台を構えて、下士にはこれを許さず。上士は騎馬《きば》し、下士は徒歩《とほ》し、上士には猪狩《ししがり》川狩《かわがり》の権を与えて、下士にはこれを許さず。しかのみならず文学は下士の分にあらずとて、表向《おもてむき》の願を以て他国に遊学《ゆうがく》するを許さざりしこともあり。

  これ等《ら》の件々は逐一《ちくいち》計《かぞ》うるに暇《いとま》あらず。到底《とうてい》上下両等の士族は各《おのおの》その等類の内に些少《さしょう》の分別《ぶんべつ》ありといえども、動かすべからざるものに非ず。独《ひと》り上等と下等との大分界《だいぶんかい》に至《いたり》ては、ほとんど人為《じんい》のものとは思われず、天然の定則のごとくにして、これを怪《あや》しむ者あることなし。(権利を異にす)

  第二、上等士族を給人《きゅうにん》と称し、下等士族を徒士《かち》または小役人《こやくにん》といい、給人以上と徒士以下とは何等《なんら》の事情あるも縁組《えんぐみ》したることなし。この縁組は藩法においても風俗においても共に許さざるところなり。啻《ただ》に表向の縁組のみならず、古来士族中にて和姦《わかん》の醜聞《しゅうぶん》ありし者を尋《たずぬ》るに、上下の士族|各《おのおの》その等類中に限り、各等の男女が互に通じたる者ははなはだ稀《まれ》なり。(ただし日本士族の風俗は最も美にして、和姦などの沙汰は極めて稀《まれ》に聞くところなり。中津藩士ももとより同様なれども、ここにはただ事実の例を示さんがために、その稀に有る者の数を比較したるのみ。)

  かつ限《かぎり》ある士族の内にて互に縁組《えんぐみ》することなれば、縁に縁を重ねて、二、三百年以来今日に至《いたり》ては、士族はただ同藩の好《よしみ》あるのみならず、現に骨肉の親族にして、その好情の篤《あつ》きはもとより論を俟《ま》たず。然《しか》るに今日、試《こころみ》に士族の系図を開《ひらき》てこれを見れば、古来上下の両等が父祖を共にしたる者なし、祖先の口碑《こうひ》を共にしたる者なし。恰《あたか》も一藩中に人種の異《こと》なる者というも可《か》なり。故にこの両等は藩を同《おなじゅ》うし君を共にするの交誼《こうぎ》ありて骨肉の親情なき者なり。(骨肉の縁を異にす)

  第三、上等士族の内にも家禄にはもとより大なる差ありて、大臣《たいしん》は千石、二千石、なおこれより以上なる者もあり。上等の最下《さいか》、小姓組、医師のごときは、十人扶持《じゅうにんぶち》より少なき者もあれども、これを概《がい》するに百石二百石或は二百五十石と唱《とな》えて、正味《しょうみ》二十二、三石より四十石|乃至《ないし》五、六十石の者最も多し。藩にて要路に立つ役人は、多くはこの百石[#ここから割り注]名目のみ[#ここで割り注終わり]以上の家に限るを例とす。藩にて正味二、三十石以上の米あれば、尋常《じんじょう》の家族にて衣食に差支《さしつかえ》あることなく、子弟にも相当の教育を施《ほどこ》すべし。

  これに反して下等士族は十五石|三人扶持《さんにんぶち》、十三石|二人扶持《ににんぶち》、或は十石|一人扶持《いちにんぶち》もあり、なお下《くだっ》て金給の者もあり。中以上のところにて正味七、八石|乃至《ないし》十餘石に上《のぼ》らず。夫婦|暮《ぐら》しなれば格別《かくべつ》、もしも三、五人の子供または老親あれば、歳入《さいにゅう》を以て衣食を給するに足《た》らず。故に家内《かない》力役《りきえき》に堪《たう》る者は男女を問わず、或は手細工《てざいく》或は紡績《ぼうせき》等の稼《かせぎ》を以て辛《かろ》うじて生計《せいけい》を為《な》すのみ。名は内職なれどもその実《じつ》は内職を本業として、かえって藩の公務を内職にする者なれば、純然たる士族に非ず、或はこれを一種の職人というも可《か》なり。生計を求むるに忙《いそが》わしく、子弟の教育を顧《かえりみ》るに遑《いとま》あらず。故に下等士族は文学その他|高尚《こうしょう》の教に乏《とぼ》しくして自《おのず》から賤《いや》しき商工の風あり。(貧富を異にす)

  第四、上等の士族は衣食に乏《とぼ》しからざるを以て文武の芸を学ぶに余暇《よか》あり。或は経史《けいし》を読み或は兵書を講じ、騎馬《きば》槍剣《そうけん》、いずれもその時代に高尚《こうしょう》と名《なづく》る学芸に従事するが故に、自《おのず》から品行も高尚にして賤《いや》しからず、士君子《しくんし》として風致《ふうち》の観《み》るべきもの多し。下等士族は則《すなわ》ち然《しか》らず。役前《やくまえ》の外《ほか》、馬に乗る者とては一人《ひとり》もなく、内職の傍《かたわら》に少しく武芸《ぶげい》を勉《つと》め、文学は四書五経《ししょごきょう》歟《か》、なお進《すすみ》て蒙求《もうぎゅう》、左伝《さでん》の一、二巻に終る者多し。特にその勉強するところのものは算筆に在《あり》て、この技芸に至《いたっ》ては上等の企《くわだ》て及ぶところに非ず。蓋《けだ》しその由縁《ゆえん》は、下等士族が、やや家産《かさん》の豊《ゆたか》なるを得て、仲間《なかま》の栄誉を取るべき路はただ小吏たるの一事にして、この吏人《りじん》たらんには必ず算筆の技芸を要するが故に、恰《あたか》も毎家《まいか》教育の風を成し、いかなる貧小士族にてもこの技芸を勉《つと》めざる者なし。

  今を以て考うれば、算筆の芸もとより賤《いや》しむべきに非ざれども、当時封建士族の世界にこれを賤しむの風なれば、これに従事する者は自《おのず》からその品行も賤しくして、士君子の仲間に歯《よわい》せられざる者のごとし。譬《たと》えば上等士族は習字にも唐様《からよう》を学び、下等士族は御家流《おいえりゅう》を書き、世上一般の気風にてこれを評すれば、字の巧拙《こうせつ》を問わずして御家流をば俗様《ぞくよう》として賤《いや》しみ、これを書く者をも俗吏《ぞくり》俗物《ぞくぶつ》として賤しむの勢《いきおい》を成せり。(教育を異にす)

  第五、上士族の内にも小禄の貧者なきに非ざれども、概《がい》してこれを見れば、その活計は入《いる》に心配なくして、ただ出《いずる》の一部に心を用《もちう》るのみ。下士族は出入《しゅつにゅう》共に心に関して身を労する者なれば、その理財の精細《せいさい》なること上士の夢にも知らざるもの多し。二人扶持《ににんぶち》とは一|箇月《かげつ》に玄米《げんまい》三|斗《と》なり。夫婦に三人の子供あれば一日に少なくも白米一升五合より二升は入用なるゆえ、現に一月二、三斗の不足なれども、内職の所得《しょとく》を以て麦《むぎ》を買い粟《あわ》を買い、或《あるい》は粥《かゆ》或は団子《だんご》、様々《さまざま》の趣向《しゅこう》にて食《しょく》を足《た》す。これを通語にて足《た》し扶持《ぶち》という。食物すでに足《た》るも衣服なかるべからず。すなわち家婦《かふ》の任《にん》にして、昼夜の別《べつ》なく糸を紡《つむ》ぎ木綿《もめん》を織り、およそ一婦人、世帯《せたい》の傍《かたわら》に、十日の労《ろう》を以て百五十目の綿を一反の木綿に織上《おりあぐ》れば、三百目の綿に交易《こうえき》すべし。これを方言《ほうげん》にて替引《かえびき》という。

  一度《いちど》は綿と交易してつぎの替引の材料となし、一度は銭と交易して世帯の一分《いちぶ》を助け、非常の勉強に非ざれば、この際に一反を余《あま》して私家《しか》の用に供するを得ず。娘の嫁入前《よめいりまえ》に母子《ぼし》ともに忙《いそがわ》しきは、仕度の品を買《かっ》てこれを製するがために非ず、その品を造るがためなり。或《あるい》はこれを買うときは、そのこれを買うの銭《ぜに》を作るがためなり。かかる理財の味《あじ》は、上士族の得て知るところに非ず。この点より論ずれば上士も一種の小華族というて可《か》なり。廃藩の後、士族の所得は大《おおい》に減じて一般の困迫《こんはく》というといえども、もしも今の上士の家禄を以てこれを下士に附与《ふよ》して下士従来の活計を立てしめなば、三、五年の間に必ず富有《ふゆう》を致すことあるべし。(理財活計の趣を異にす)

  廃藩の後、藩士の所得|大《おおい》に減ずるとは、常禄《じょうろく》の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来|度々《たびたび》の改革にて藩士の禄を削《けず》り、その割合を古《いにしえ》に比すればすでに大《おおい》に減禄《げんろく》したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱《とな》えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専《もっぱら》にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜《てきぎ》にしたるが故《ゆえ》に、諸藩に普通なる家禄平均の災《わざわい》を免《まぬ》がれたるなり。然《しか》りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚《はなは》だ大なり。中津藩歳入の正味《しょうみ》はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残《のこり》およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。

  この公用とは所謂《いわゆる》公儀《こうぎ》(幕府のことなり)の御勤《おつとめ》、江戸|藩邸《はんてい》の諸入費、藩債《はんさい》の利子、国邑《こくゆう》にては武備《ぶび》城普請《しろぶしん》、在方《ざいかた》の橋梁《きょうりょう》、堤防《ていぼう》、貧民《ひんみん》の救済手当、藩士文武の引立《ひきたて》等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実《じつ》は然らず。譬《たと》えば江戸|汐留《しおどめ》の藩邸を上|屋舗《やしき》と唱《とな》え、広さ一万坪余、周囲およそ五百|間《けん》もあらん。類焼《るいしょう》の跡にてその灰を掻《か》き、仮《かり》に松板を以て高さ二間|許《ばか》りに五百間の外囲《そとがこい》をなすに、天保《てんぽう》時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請《ふしん》といい買物といい、また払物《はらいもの》といい、経済の不始末《ふしまつ》は諸藩同様、枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。もとより江戸の町人職人の金儲《かねもうけ》なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑《にぎわい》たらざるを得ず。また国邑《こくゆう》にて文武の引立《ひきたて》といえば、藩士の面々《めんめん》は書籍《しょじゃく》も拝借《はいしゃく》、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就《つ》く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足《むりそく》拝借金|歟《か》、または下《く》だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂《わいろ》の沙汰《さた》は稀《まれ》なれども、自《おのず》から役徳《やくとく》なるものあり。江戸大阪の勤番より携《たずさえ》帰《かえ》る土産《みやげ》の品は、旅費の残《のこり》にあらざれば所謂《いわゆる》役徳を積《つみ》たるものより外ならず。

  俗官《ぞっかん》汚吏《おり》はしばらく擱《さしお》き、品行正雅の士といえども、この徳沢《とくたく》の範囲《はんい》を脱せんとするも、実際においてほとんど能《よく》すべからざることなり。藩にて廉潔《れんけつ》の役人と称し、賄賂《わいろ》役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自《みず》からこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利《やすり》にて金を貸し、または態《わざ》と高利《こうり》にてその金を預り、または元値《もとね》を損して安物を売る等、様々《さまざま》の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識《し》らずして賄賂《わいろ》の甘き穽《わな》に陥《おちい》らざるを得ず。蓋《けだ》し人として理財商売の考あらざれば、到底《とうてい》その品行を全《まっと》うすること能わざるものなり。以上|枚挙《まいきょ》の件々はいずれも皆《みな》藩士常禄の他《ほか》に得るところのものなれども、今日《こんにち》に至《いたり》てはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫《こんぱく》する一の原因なり。

  第六、上士族は大抵《たいてい》婢僕《ひぼく》を使用す。たといこれなきも、主人は勿論《もちろん》、子弟たりとも、自《みず》から町に行《ゆき》て物を買う者なし。町の銭湯《せんとう》に入《い》る者なし。戸外に出《いず》れば袴《はかま》を着《つ》けて双刀を帯《たい》す。夜行は必ず提灯《ちょうちん》を携《たずさ》え、甚《はなはだ》しきは月夜にもこれを携《たずさう》る者あり。なお古風なるは、婦女子《ふじょし》の夜行に重大なる箱提灯《はこちょうちん》を僕《ぼく》に持たする者もあり。外に出《い》でて物を買うを賤《いや》しむがごとく、物を持つもまた不外聞《ふがいぶん》と思い、剣術道具釣竿の外は、些細《ささい》の風呂敷包《ふろしきづつみ》にても手に携うることなし。

  下士はよき役を勤《つとめ》て兼《かね》て家族の多勢《たぜい》なる家に非ざれば、婢僕《ひぼく》を使わず。昼間《ひるま》は町に出《い》でて物を買う者少なけれども、夜は男女の別《べつ》なく町に出《いず》るを常とす。男子は手拭《てぬぐい》を以て頬冠《ほおかむ》りし、双刀を帯《たい》する者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処《きんじょ》の歩行なれば双刀は帯《たい》すれども袴《はかま》を着《つ》けず、隣家の往来などには丸腰《まるごし》[#ここから割り注]無刀のこと[#ここで割り注終わり]なるもあり。また宴席、酒|酣《たけなわ》なるときなどにも、上士が拳《けん》を打ち歌舞《かぶ》するは極て稀《まれ》なれども、下士は各《おのおの》隠し芸なるものを奏して興《きょう》を助《たすく》る者多し。これを概《がい》するに、上士の風は正雅《せいが》にして迂闊《うかつ》、下士の風は俚賤《りせん》にして活溌《かっぱつ》なる者というべし。その風俗を異《こと》にするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。


    
  上士 下士
見て呉れよということを みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
行けよということを いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じ
又いきない  又いきなはりい
如何《いかが》せんかということをどをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか  商に同じ
又どをしゆうか


  この外《ほか》、筆にも記《しる》しがたき語風の異同は枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。故に隔壁《かくへき》にても人の対話を聞けば、その上士たり、下士たり、商たり、農たるの区別は明《あきらか》に知るべし。(風俗を異にす)

  右条々のごとく、上下両等の士族は、権利を異《こと》にし、骨肉の縁を異にし、貧富《ひんぷ》を異にし、教育を異にし、理財《りざい》活計《かっけい》の趣《おもむき》を異にし、風俗《ふうぞく》習慣《しゅうかん》を異にする者なれば、自《おのず》からまたその栄誉の所在《しょざい》も異なり、利害の所関《しょかん》も異ならざるを得ず。栄誉《えいよ》利害《りがい》を異にすれば、また従《したがっ》て同情|相憐《あいあわれ》むの念《ねん》も互《たがい》に厚薄《こうはく》なきを得ず。譬《たと》えば、上等の士族が偶然会話の語次《ごじ》にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事《こと》は云々《しかじか》、ということあり。下等士族もまた給人分《きゅうにんぶん》の輩《はい》は知らぬことなれども彼《か》の一条は云々、とて、互に竊《ひそか》に疑うこともあり憤《いきどお》ることもありて、多年|苦々《にがにが》しき有様なりしかども、天下一般、分《ぶん》を守るの教《おしえ》を重んじ、事々物々|秩序《ちつじょ》を存して動かすべからざるの時勢《じせい》なれば、ただその時勢に制せられて平生《へいぜい》の疑念《ぎねん》憤怒《ふんど》を外形に発すること能《あた》わず、或は忘るるがごとくにしてこれを発することを知らざりしのみ。

  中津の藩政も他藩のごとく専《もっぱ》ら分《ぶん》を守らしむるの趣意《しゅい》にして、圧制《あっせい》を旨とし、その精密なることほとんど至らざるところなし。而《しこう》してその政権はもとより上士に帰《き》することなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀《きんこく》会計のことに至《いたり》ては上士の短所なるを以て、名は役頭《やくがしら》または奉行《ぶぎょう》などと称すれども、下役《したやく》なる下士《かし》のために籠絡《ろうらく》せらるる者多し。故に上士の常に心を関するところは、尊卑《そんぴ》階級のことに在り。この一事においては、往々《おうおう》事情に適せずして有害《ゆうがい》無益《むえき》なるものあり。誓《たと》えば藩政の改革とて、藩士一般に倹約《けんやく》を命ずることあり。この時、衣服の制限を立《たつ》るに、何の身分は綿服《めんぷく》、何は紬《つむぎ》まで、何は羽二重《はぶたえ》を許すなどと命《めい》を出《いだ》すゆえ、その命令は一藩経済のため歟《か》、衣冠制度《いかんせいど》のため歟、両様混雑して分明ならず。恰《あたか》も倹約の幸便《こうびん》に格式《かくしき》りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱《いだ》き、到底《とうてい》倹約の永久したることなし。

  また今を去ること三十余年、固《かた》め番《ばん》とて非役《ひやく》の徒士《かち》に城門の番を命じたることあり。この門番は旧来|足軽《あしがる》の職分たりしを、要路の者の考に、足軽は煩務《はんむ》にして徒士は無事なるゆえ、これを代用すべしといい、この考と、また一方には上士《じょうし》と下士《かし》との分界をなお明《あきらか》にして下士の首を押《おさ》えんとの考を交え、その実《じつ》はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛《さかん》にするにもあらず、ただ一事無益の好事《こうず》を企《くわだ》てたるのみ。この一条については下士の議論|沸騰《ふっとう》したれども、その首魁《しゅかい》たる者二、三名の家禄《かろく》を没入し、これを藩地外に放逐《ほうちく》して鎮静《ちんせい》を致したり。

  これ等《ら》の事情を以て、下士の輩《はい》は満腹《まんぷく》、常に不平なれども、かつてこの不平を洩《もら》すべき機会を得ず。その仲間《なかま》の中にも往々《おうおう》才力に富み品行|賤《いや》しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙《いそが》わしくして、同類一般の事を顧《かえりみ》るに遑《いとま》あらず。非役《ひやく》の輩《はい》は固《もと》より智力もなく、かつ生計の内職に役《えき》せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日《ひいちにち》を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸《ようや》く繁盛《はんじょう》を致し、最前《さいぜん》はただ杉《すぎ》檜《ひのき》の指物《さしもの》膳箱《ぜんばこ》などを製し、元結《もとゆい》の紙糸《かみいと》を捻《よ》る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄《げた》傘《からかさ》を作る者あり、提灯《ちょうちん》を張る者あり、或は白木《しらき》の指物細工《さしものざいく》に漆《うるし》を塗《ぬり》てその品位を増す者あり、或は戸《と》障子《しょうじ》等を作《つくっ》て本職の大工《だいく》と巧拙《こうせつ》を争う者あり、しかのみならず、近年に至《いたり》ては手業《てわざ》の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海《とかい》せしむる者あり、或は自《みず》からその船に乗る者あり。

  もとより下士の輩《はい》、悉皆《しっかい》商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中《なかまうち》の資本は間接に働《はたらき》をなして、些細《ささい》の余財もいたずらに嚢底《のうてい》に隠るることなく、金の流通|忙《いそが》わしくして利潤《りじゅん》もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観《ぼうかん》するに非ず、往々《おうおう》竊《ひそか》に資本を卸《おろ》す者ありといえども、如何《いかん》せん生来の教育、算筆《さんひつ》に疎《うと》くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼《いらい》して商法を行うも、空《むな》しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕《そうはく》を嘗《なむ》るのみ。

  下士の輩《はい》は漸《ようや》く産を立てて衣食の患《うれい》を免《まぬ》かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇《すんか》あれば、上士の教育を羨《うらや》まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開《ひらい》て少年を教《おしう》る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合《いあ》い、柔術《じゅうじゅつ》、足軽《あしがる》は、弓、鉄砲、棒の芸を勉《つとむ》るのみにて、槍術《そうじゅつ》、剣術を学ぶ者、甚《はなは》だ稀《まれ》なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀《ふうぎ》にわかに面目《めんもく》を改め、また先きの算筆のみに安《やす》んぜざる者多し。ただしその品行の厳《げん》と風致《ふうち》の正雅《せいが》とに至《いたり》ては、未《いま》だ昔日《せきじつ》の上士に及ばざるもの尠《すく》なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。

  これに反して上士は古《いにしえ》より藩中無敵の好地位を占《しむ》るが為に、漸次《ぜんじ》に惰弱《だじゃく》に陥《おちい》るは必然の勢《いきおい》、二、三十年以来、酒を飲み宴を開くの風を生じ(元来|飲酒《いんしゅ》会宴《かいえん》の事は下士に多くして、上士は都《すべ》て質朴《しつぼく》なりき)、殊《こと》に徳川の末年、諸侯の妻子を放解《ほうかい》して国邑《こくゆう》に帰《か》えすの令を出《いだ》したるとき、江戸定府《えどじょうふ》とて古来江戸の中津《なかつ》藩邸《はんてい》に住居《じゅうきょ》する藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻《しき》りに都会の地に往来してその風俗に慣《な》れ、その物品を携《たずさ》えて帰り、中津へ移住する江戸の定府藩士は妻子と共に大都会の軽便流を田舎藩地の中心に排列《はいれつ》するの勢《いきおい》なれば、すでに惰弱《だじゃく》なる田舎《いなか》の士族は、あたかもこれに眩惑《げんわく》して、ますます華美《かび》軽薄《けいはく》の風に移り、およそ中津にて酒宴《しゅえん》遊興《ゆうきょう》の盛《さかん》なる、古来特にこの時を以て最《さい》とす。故に中津の上等士族は、天下多事のために士気を興奮するには非ずして、かえってこれがためにその懶惰《らんだ》不行儀《ふぎょうぎ》の風を進めたる者というべし。

  右のごとく上士の気風は少しく退却《たいきゃく》の痕《あと》を顕《あら》わし、下士の力は漸《ようや》く進歩の路に在り。一方に釁《きん》の乗《じょう》ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙《もく》せざるもまた自然の勢《いきおい》、これを如何《いかん》ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役《ひやく》なる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関《かかわ》らざる者なり)数十名、ひそかに相議《あいぎ》して、当時執権の家老を害せんとの事を企《くわだ》てたることあり。中津藩においては古来|未曾有《みぞう》の大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛《ほばく》して遺類《いるい》なきは疑を容《い》れざるところなれども、如何《いかん》せん、この時の事勢においてこれを抑制《よくせい》すること能《あた》わず、ついに姑息《こそく》の策《さく》に出《い》で、その執政を黜《しりぞ》けて一時の人心を慰《なぐさ》めたり。二百五十余年、一定不変と名《なづ》けたる権力に平均を失い、その事実に顕《あら》われたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三|癸亥《きがい》の年に在り)

  この事情に従《したがっ》て維新《いしん》の際に至り、ますます下士族の権力を逞《たくまし》うすることあらば、或は人物を黜陟《ちゅっちょく》し或は禄制《ろくせい》を変革し、なお甚《はなはだ》しきは所謂《いわゆる》要路の因循吏《いんじゅんり》を殺して、当時流行の青面書生《せいめんしょせい》が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋《けだ》し、また謂《いわ》れなきに非ず。下等士族の輩《はい》が、数年以来教育に心を用《もちう》るといえども、その教育は悉皆《しっかい》上等士族の風を真似《まね》たるものなれば、もとよりその範囲《はんい》を脱《だっ》すること能《あた》わず。剣術の巧拙《こうせつ》を争わん歟《か》、上士の内に剣客|甚《はなは》だ多くして毫《ごう》も下士の侮《あなどり》を取らず。漢学の深浅《しんせん》を論ぜん歟《か》、下士の勤学《きんがく》は日《ひ》浅《あさ》くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。

  また下士の内に少しく和学を研究し水戸《みと》の学流を悦《よろこ》ぶ者あれども、田舎《いなか》の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出《いず》ること少なく他藩人に交《まじわ》ること稀《まれ》なるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視《べっし》して憚《はばか》るところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂《いわゆる》世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚《ならっ》てこれを実地に活用すること能《あた》わず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥《もんばつ》なり、おおよそ一様同等にして抜群《ばつぐん》の巨魁《きょかい》なきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県《はいはんちけん》の時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事|静穏《せいおん》なりし由縁《ゆえん》なり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾《かくじょう》することあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然《しか》らざるは、これを偶然の幸福、因循《いんじゅん》の賜《たまもの》というべし。

  中津藩はすでにこの偶然の僥倖《ぎょうこう》に由《より》て維新の際に諸藩普通の禍《わざわい》を免《まぬ》かれ、爾後《じご》また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分《わか》ち旧藩の積金《つみきん》と合《がっ》して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名《なづ》けたり。学校の規則もとより門閥《もんばつ》貴賤《きせん》を問わずと、表向《おもてむき》の名に唱《となう》るのみならず事実にこの趣意を貫《つらね》き、設立のその日より釐毫《りごう》も仮《か》すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中《ざんむちゅう》に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。

  けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出《いず》る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴《くちばし》を入れず、旧藩地に何等《なんら》の事変あるも恬《てん》として呉越《ごえつ》の観《かん》をなしたる者なれば、往々《おうおう》誤《あやまっ》て薄情《はくじょう》の譏《そしり》は受《うく》るも、藩の事務を妨《さまた》げその何《いず》れの種族に党《とう》するなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼《ろうがん》をもってこれを視《み》るも、上士を先《さき》にするというべからず、下士を後《のち》にするというべからず、その目的とするところは正《まさ》しく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共《とも》に与《とも》に日本社会の虚威《きょい》を圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰《き》すると否《いな》とはその自然に任《まか》したりしに、士族の上下に別なく漸《ようや》く学に就《つ》く者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。

  すでに学校に心を帰《き》すれば、門閥《もんばつ》の念も同時に断絶してその痕跡《こんせき》を見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮《ねんりょ》を測量《そくりょう》する試験器というも可《か》なり。(余輩《よはい》もとより市学校に入らざる者を見て悉皆《しっかい》これを門閥守旧の人というに非ず。近来は市校の他に学校も多ければ、子弟のために適当の場所を選ぶは全く父母の心に存することにして、これがため、敢《あえ》てその人物を軽重《けいちょう》するにはあらざれども、真に市校に心を帰して疑わざる者は、果して門閥の念を断絶する人物なるが故に、本文のごとくこれを証するのみ。)下等士族の輩《はい》が上士に対して不平を抱《いだ》く由縁《ゆえん》は、専《もっぱ》ら門閥|虚威《きょい》の一事に在《あり》て、然《しか》もその門閥家の内にて有力者と称する人物に向《むかっ》て敵対の意を抱《いだ》くことなれども、その好敵手《こうてきしゅ》と思う者が首《しゅ》として自《みず》から門閥の陋習《ろうしゅう》を脱したるが故に、下士は恰《あたか》も戦わんと欲して忽《たちま》ち敵の所在を失《うしな》うたる者のごとし。敵のためにも、味方のためにも、双方共に無上の幸《さいわい》というべし。故にいわく、市学校は旧中津藩の僥倖《ぎょうこう》を重ねて固くして真の幸福となしたるものなり。

  余輩《よはい》の所見《しょけん》をもって、旧中津藩の沿革《えんかく》を求め、殊《こと》に三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明《あきらか》に原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡《こんせき》を見ざるは事実において明白なり。(今年数十名の藩士が脱走《だっそう》して薩《さつ》に入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余《じよ》の藩士に関係あることなし。)然《しか》りといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患《うれい》なきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退《しりぞ》くものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期《き》するところ左《さ》のごとし。

  すなわち今の事態を維持《いじ》して、門閥の妄想《もうそう》を払い、上士は下士に対して恰《あたか》も格式りきみの長座《ちょうざ》を為《な》さず、昔年のりきみは家を護り面目《めんもく》を保つの楯《たて》となり、今日のりきみは身を損《そん》じ愚弄《ぐろう》を招《まね》くの媒《なかだち》たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁《ぶていさい》の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨《きゅうえん》を思わず、執念《しゅうねん》深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥《はず》るところ、執念《しゅうねん》深きに過ぎて進退《しんたい》窮《きゅう》するの愚《ぐ》たるを悟《さと》り、興《きょう》に乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文《ふるしょうもん》に墨《すみ》を引き、今後《こんご》期《き》するところは士族に固有《こゆう》する品行の美《び》なるものを存して益《ますます》これを養い、物を費《ついや》すの古吾《こご》を変じて物を造るの今吾《こんご》となし、恰《あたか》も商工の働《はたらき》を取《とっ》て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁《さきがけ》たらんことを期望《きぼう》するなり。

  然《しか》りといえども、その消極を想像してこれを憂《うれ》うれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至《いたり》てこれを見れば、甲は借主《かりぬし》のごとく乙は貸主《かしぬし》のごとくにして、未《いま》だ明々白々の差引《さしひき》をなさず。また上士の輩《はい》は昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做《みな》し、自《おのず》からまた下士に向《むかっ》て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟《いやしく》も封建の残夢を却掃《きゃくそう》して精神を高尚の地位に保つこと能《あた》わざる者より以下は、到底《とうてい》この貸借《たいしゃく》の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間《なかま》が私《わたくし》に集会すれば、その会の席順は旧《もと》の禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安《めやす》なければ止《や》むを得ざることなれども、残夢《ざんむ》の未《いま》だ醒覚《せいかく》せざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套《きゅうとう》の門閥流《もんばつりゅう》を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑《こうひ》も聞き細君《さいくん》の愚痴《ぐち》も喧《かまびす》しきがために、残夢《ざんむ》まさに醒《さ》めんとしてまた間眠《かんみん》するの状なきにあらず。これ等《ら》の事情をもって考《かんがう》るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動《そうどう》を生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾《きゅうあ》たちまち再発して上士と下士とその方向を異《こと》にするのみならず、針小《しんしょう》の外因よりして棒大《ぼうだい》の内患を引起すべきやも図るべからず。

  しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常《じんじょう》の業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合《がっ》せず、却《かえっ》て互に相《あい》軋轢《あつれき》するの憂《うれい》なきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂《いわゆる》消極の禍《わざわい》にして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患《ゆうかん》、消極の域内に在るの間は、未《いま》だその積極を謀《はか》るに遑《いとま》あらざるなり。

  今消極の憂《うれい》を憂《うれえ》てこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀《はかっ》てこれを求《もとむ》るにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支《さしつかえ》もあらん、不如意《ふにょい》は人生の常にしてこれを如何《いかん》ともすべからず。故に余輩の注意するところは、未《いま》だ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路《みち》に進まんと欲するなり。すなわちその路《みち》とは他《た》なし、今の学校を次第《しだい》に盛《さかん》にすることと、上下士族|相互《あいたがい》に婚姻《こんいん》するの風を勧《すすむ》ることと、この二箇条のみ。

  そもそも海を観《み》る者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声《しょうせい》に驚かず、感応《かんのう》の習慣によって然《しか》るものなり。人の心事とその喜憂《きゆう》栄辱《えいじょく》との関係もまた斯《かく》のごとし。喜憂栄辱は常に心事に従《したがっ》て変化するものにして、その大《おおい》に変ずるに至《いたっ》ては、昨日の栄《えい》として喜びしものも、今日は辱《じょく》としてこれを憂《うれう》ることあり。学校の教は人の心事を高尚《こうしょう》遠大《えんだい》にして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。

  地理書を見れば、中津の外に日本あり、日本の外に西洋諸国あるを知るべし。なお進《すすみ》て、天文地質の論を聞けば、大空《たいくう》の茫々《ぼうぼう》、日月《じつげつ》星辰の運転に定則あるを知るべし。地皮の層々、幾千万年の天工に成りて、その物質の位置に順序の紊《みだ》れざるを知るべし。歴史を読めば、中津藩もまたただ徳川時代三百藩の一のみ。徳川はただ日本一島の政権を執《と》りし者のみ。日本の外には亜細亜《アジア》諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今《ここん》英雄|豪傑《ごうけつ》の事跡《じせき》を見るべし。歴山《アレキサンダー》王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤《ほうたいこう》なきに非ず、物徂徠《ぶつそらい》も誠に東海の一小先生のみ。わずかに地理歴史の初歩を読むも、その心事はすでに旧套《きゅうとう》を脱却《だっきゃく》して高尚ならざるを得ず。いわんや彼《か》の西洋諸大家の理論書を窺《うかが》い、有形の物理より無形の人事に至るまで、逐一《ちくいち》これを比較分解して、事々物々の原因と結果とを探索《たんさく》するにおいてをや。読《よみ》てその奥に至れば、心事《しんじ》恍爾《こうじ》としてほとんど天外に在《あ》るの思《おもい》をなすべし。この一段に至《いたり》て、かえりみて世上の事相を観《み》れば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯《たわむれ》に異《こと》ならず、中津旧藩のごとき、何《なん》ぞこれを歯牙《しが》に止《とむ》るに足《た》らん。

  彼《か》の御広間《おひろま》の敷居《しきい》の内外を争い、御目付部屋《おめつけべや》の御記録《ごきろく》に思《おもい》を焦《こが》し、※[#「弗+色」、第3水準1-90-60]然《ふつぜん》として怒り莞爾《かんじ》として笑いしその有様《ありさま》を回想すれば、正《まさ》にこれ火打箱《ひうちばこ》の隅《すみ》に屈伸《くっしん》して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至《いたり》ては、その御広間もすでに湯屋《ゆや》の薪《たきぎ》となり、御記録も疾《と》く紙屑屋《かみくずや》の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々《れんれん》すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥《もんばつ》虚威《きょい》を咎《とが》めてその停滞《ていたい》を今日に洩《も》らさんとするは、空屋《あきや》の門に立《たち》て案内を乞《こ》うがごとく、蛇《へび》の脱殻《ぬけがら》を見て捕《とら》えんとする者のごとし。いたずらに自《みず》から愚《ぐ》を表《あらわ》して他《た》の嘲《あざけり》を買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚《あぐ》るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族《かぞく》と同席して平伏《へいふく》せざるは昇進《しょうしん》なり。下落を嫌《きら》わば平民に遠ざかるべし、これを止《と》むる者なし。昇進を願わば華族に交《まじわ》るべし、またこれを妨《さまたぐ》る者なし。これに遠ざかるもこれに交《まじわ》るも、果してその身に何の軽重《けいちょう》を致すべきや。これを是《こ》れ知らずして自《みず》から心を悩《なや》ますは、誤謬《ごびゅう》の甚《はなはだ》しき者というべし。故に有形なる身分の下落《げらく》昇進《しょうしん》に心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持《いじ》せんこと、余輩の懇々《こんこん》企望《きぼう》するところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子《しくんし》に求め、その共《とも》に尽力して学校を盛《さかん》にせんことを願うなり。

  中津の旧藩にて、上下の士族が互に婚姻《こんいん》の好《よしみ》を通《つう》ぜざりしは、藩士社会の一大欠典にして、その弊害《へいがい》はほとんど人心の底に根拠して動かすべからざるもののごとし。今日に至《いたり》ては稀《まれ》に上下相婚する者もなきに非ざれども、今後ますますこの路を開くべきの勢《いきおい》を見ず。上士の残夢|未《いま》だ醒《さ》めずして陰《いん》にこれを忌《い》むものあれば、下士は却《かえっ》てこれを懇望《こんぼう》せざるのみならず、士女の別《べつ》なく、上等の家に育《いく》せられたる者は実用に適せず、これと婚姻を通ずるも後日《ごじつ》生計《せいけい》の見込なしとて、一概に擯斥《ひんせき》する者あり。一方は婚を以て恩徳《おんとく》のごとく心得、一方はその徳を徳とせずしてこれを賤《いや》しむの勢《いきおい》なれば、出入《しゅつにゅう》の差、甚《はなは》だ大にして、とても通婚《つうこん》の盛《さかん》なるべき見込あることなし。

  然《しか》りといえども、世の中の事物は悉皆《しっかい》先例に傚《なら》うものなれば、有力の士は勉《つと》めてその魁《さきがけ》をなしたきことなり。婚姻はもとより当人の意に従《したがっ》て適不適もあり、また後日生計の見込もなき者と強《し》いて婚《こん》すべきには非ざれども、先入するところ、主となりて、良偶《りょうぐう》を失うの例も少なからず。親戚《しんせき》朋友《ほうゆう》の注意すべきことなり。一度《ひとた》び互に婚姻すればただ双方|両家《りょうけ》の好《よしみ》のみならず、親戚の親戚に達して同時に幾家の歓《よろこび》を共にすべし。いわんや子を生み孫を生むに至ては、祖父を共にする者あり、曾祖父を共にする者あり、共に祖先の口碑《こうひ》をともにして、旧藩社会、別に一種の好情帯を生じ、その功能《こうのう》は学校教育の成跡《せいせき》にも万々《ばんばん》劣《おと》ることなかるべし。








底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平成10)年2月20日第10刷発行
※旧字の「與・餘・竊」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎

2006年11月7日作成