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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



新嘗祭神嘗祭大嘗祭

日本の上古は、彼禹貢の冀州に島夷皮服と、楊州に島夷卉脱と見ゆ。冀州の島夷は、韓人の皮を以て交通したるにて、楊州の島夷は、倭人の麻殻の木棉を以て交通したるなり。此く四千年前より、三土互に交通したれは、風俗も交互に輸入したらん、然れとも倭韓は尚神祇を分つことはなく、純に天を祭れり。叉一千年を経て、周初に至り、黒龍江の山野に於て、最獷嚀文盲と称したる肅慎さへも、石砮楛矢を以て交通したる程なれば、倭韓の発達は、彼少昊氏衰世の如きを経過する時代ならん。天皇継続の世数を人世の通率にて推算すれば、天祖の降跡は二千四五百年前と思はる、周の中葉なり。此時己に天兒屋命 神産霊の裔 太玉命 高産霊裔 の二氏、中臣部・忌部を分掌し、中臣は太占・祓除の法を伝へて神に事へ、忌部は斎物を調へて民を率うるは、彼重黎の天地を分掌したるに甚相似たり。其祭天の大典は新嘗祭なり、新嘗祭は天照大神を祭るに非ず、天を祭る古典なり、其は神代巻に、〔素戔鳴尊見天照大神新嘗時。則陰放篌於新宮。叉見天照大神女方織神衣居斎服殿。則剥天斑駒。穿殿甕而投納云云〕と見ゆ、是大神窟戸籠りの原因にて、天照大神の親ら新嘗祭を行はせられたるにて明証となすべし、叉觸穢不浄を忌むの風俗も、みな此時代以前より早くあることなり、且新嘗祭は支那にもあり、爾雅 釈天 に、〔春祭曰祠。夏祭曰礿。秋祭曰嘗。冬祭曰蒸。〕王制も略同し、周礼は異なり、取らず 董仲舒は〔祠者以正月始食韮也。礿者以四月食麥也。嘗者以七月嘗黍稷也。蒸者以十月進初稲也〕と説き、郭璞は嘗を嘗新穀也と、蒸を進品物也と注す、然れば嘗蒸は同しく新穀を進むる祭にて、我神嘗新嘗両祭に似たり、我九月に神嘗、十一月に新嘗と分つは、何代比より例なるや、紀の天武五年九月に、〔神官秦曰。為新嘗嘗、国郡〕と、十月に〔発幣帛於相嘗諸神祇〕とあるは、神嘗例幣のことにて、〔十一月乙丑。以新嘗事不告朔〕とある、是を史に見えたるを始めとす。
新嘗祭は東洋の古俗にて、韓土も皆然り、後漢書 魏志も同しに、高勾驪は〔以十月祭天。国中大会。名曰東盟〕とあり、東盟は東明にて、豊明節会のことならん、濊は〔常用十月祭天。飲洒歌舞。名之為舞王〕とあり、馬韓は〔常以五月田竟 魏志は下種訖に作る 祭鬼神。晝夜群聚歌舞。輙数十人相隨。踏地為節。十月農功畢亦如之〕とあれば、夏冬両度の大祭をなし、皆節会を行ふなり。夫餘は〔以臘月祭天。大会連日。飲食歌舞。名曰迎鼓〕とありて、此国のみ十二月なれど、其趣は同し。我国の嘗祭も、固り両度行はるゝには非す、式に九月の神嘗は伊勢神宮の條に記し、十月の新嘗は四時祭の條に記す、神祇令の義解に〔神嘗祭。謂神衣祭日便即祭之〕とありて、伊勢神宮に於て挙行せらる、天皇は神祇官に行幸ありて、奉幣使を発せらるゝまでなり。前の天武紀の文を見よ 江家次第に、〔天皇宣常  毛  奉 留長月乃神嘗乃御幣会。汝中臣能申天奉礼。中臣微音称進退とあり、是を例幣と称す。十一月の新嘗こそ、令に下卯大嘗祭とありて天皇神紙官 正式は中和院 に於て親祭ある。職員令義解に〔謂嘗新穀以祭神祇也。朝者諸神之相嘗祭。夕者供新穀於至尊也〕とあり、祭畢て、豊明節会を行はる。格の宇多天皇の詔に、寛平五年三月〔二月新年。六月十二月月次。十一月新嘗等。国家之大事也。欲歳災不起。時令順度。預此祭神。京畿九国大小通計五百五十八社〕とあるにて、其大要を知るべし。古は新嘗祭を大嘗ともいひたれど、令に〔凡天皇即位。惣祭天神地祇。〕又〔凡大嘗者。毎世一年。国司行事〕とある。天子一代一度の大祭に混同するを以て、毎年の嘗を新嘗といふことになりぬ。大嘗会は神祇官に悠紀主基両神殿を新造せられ、天子天之羽衣をめして新祭ある。其は二條艮基公假名文の文和大嘗会記あり、就て其概略を見るべし。今上は明治四年十一月に挙行せら れたり。是は世に記憶したる人も多かるべし、余は岩倉全権大使に隨ひ米国へ航する船中に在りしに、其日米国公使「デロンク」氏、天皇陛下一代一度の大祭日とて、祝辞を演し、祝杯を挙たり。此の如く新嘗大嘗祭は大神宮も親祭し給へる古典にて皇統と共に継続し、神道に於て最重の祭なれは、臣民は皆知らざるべからず。


東洋祭天の起り
太神宮も天を祭る





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.530-531
   1929(昭和4)年発行