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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



太神宮も天を祭る

伊勢太神宮には、三神器の鏡剣を 後に剣は尾張熱田太神宮 斎奉ること、普く世の知所なるべし。此鏡は、古事記に、太神宮の詔を記して、専為我御鏡而如拝吾前伊都岐奉〕とあれば、俗に太神を祠ると恩ふも無理ならねど、是も実は天を祭るなり。我御魂の字に注意すべし。此に適例あり、大三輪牡は、書記一書に〔大己貴神曰唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂、今欲二何処住耶。対曰。吾欲住於日本国之三諸山。故即営宮彼処。使就而居大三輪神之神也〕と見えて、大 己貴神の自ら幸魂奇魂を祠たる所なり。魂とは天の霊顕をいふ、さなくては己が己の魂を崇拝するの理あらんや、太神の我御魂と詔給へるも正にこれに同し。叉垂仁紀に〔故隨大神教。立其祠於伊勢国因興斎宮於五十鈴川上。是謂磯宮。乃天照大神始自天降之処也〕とあるを熟看すべし。始目天降之処とは、天孫瓊々杵尊西降の時、猿田彦大神の〔吾則應到伊勢之狭長田五十鈴川 紀一書 といひたるに考合すれば、其時天照大神は、高天原 大倭 より伊勢に遷都ありて、東国を経営し給へると思はる。磯宮は其宮址なれは、大神の在す時も必す新嘗殿斎服殿を造りて天を祭り、其大殿にて政事を裁せらるゝこと、崇神以前の式の如くにてあるべし。外宮は其離宮なり、古事記伝に、外宮は師の祝祠考に、万葉集なる登都美夜の例を引て、其は常の大宮の外に建置れて行幸ある宮を云なれば、即天皇の宮にして、別に主あることなし、然れば此伊勢の外宮も、五十鈴宮の外宮にして、天照大御神の宮なりと云たるは、昔より比なき考にして、信に然ることなり。然れば元来有し天照大御神の外宮に、豊受大神をは鎮祭たるなりとあるは、本居氏諸説の中に、最價直ある金言なり。故に外宮は豊受姫を祠るい非す、磯宮の外宮なり。又磯宮は天照大御神を祠るに非す、其大宮の跡に神鏡を斎奉りたるなり。大三輪社には、今も宝殿を造らす、只拝殿のみなりと、是は三諸山 を幸魂奇魂の鎮まる所として崇拝し、別に神礼を斎かなればなるべし、伊勢三輪両神宮の起りは此の如し。皆天を祭るなり。然れども伊勢は天照大神の御魂にて、三輪は大国魂の御魂といへば、直に其人を祭るが如く聞ゆ、因て早き時代より伊勢を天神、三輪を地祇と別ち、之を推究むれば、亦人鬼崇拝の堂の如くにも聞ゆ。因て後世に伊勢を大廟などゝ誤称するものもあり、其は次に辨明すべし、又天照大神の徳を日に比べて天照と申し、大日孁貴と申奉る。故に五瀬命は我日神子孫而向日征虜。此逆天道也と云給ひ、聖武帝は東大寺に大仏を鋳造し給へり。毘盧遮那仏は大日如来なれば、大神を其権化と信し給ふ故なり、天に在て最も人に功用の顕著なるは、日輪に過るものなし、因て大神の徳を賛称したるにて、大神は日輪のことには非ず、又日を天と思ひたるにも非す、大神は天の代表者と信し、日に比べたるなり。大神宮は其詔に、我前に拝むが如くせよとの旨に従ひて、其御魂を拝む所なり、漢土の宋廟に国祖を天に配享するとは、大に異なり。


新嘗祭神嘗祭大嘗祭
賢所及ひ三種神器





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.531-532
   1929(昭和4)年発行