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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



神道に人鬼を崇拝せず

神道に人鬼を崇拝することは、古書に絶えてなきことなり。伊勢大神宮は固より大廟に非ず、忍穂耳尊社の豊前香春にあるは後に辯ずべし、次て瓊々杵尊の日向可愛山陵、彦火火出見尊の日向高屋山陵、鸕鶿草葺不合尊の日向吾平山陵は、並に延喜式に無陵戸とありて、又〔神代三陵。於山城国葛野郡田邑陵南原祭之。其兆域東西一町。南北一町〕とあり、是は何代に築かれしにや、日向の遠隔なるを以て、陵代を作りて祭られし故に、日向三陵は守戸もなく、終に其処も知れぬ様に移果たり、可愛山陵は頴摩鶏姓郡に、高尾山陵は同国阿多郡加世田郷鷹屋に在べきなり 且田邑陵は神社に非ず、墓祭りをなす所なり、是神道の風なるべし。故に神武帝の畝傍山陵にも神社を建てず、綏靖帝以後歴代の天子を神社に祠りたることなし。八幡大菩薩を神宮皇后應神天皇といふは仏説の入たる後の事なり、是は別に説あり、続日本後紀、承和七年五月藤原吉野の議に、〔山陵猶宗廟也。縦無宗廟者。臣子何処仰〕といへり、此の如く、天子に神社を建たる例なきに、臣下には神社を建て、朝廷より祭らるゝことは、断々あるべき理に非ず。あるは後世の神社に祭神を附會したるより誤られ、終に神社は人鬼を崇拝する祠堂の如く思ひたるのみ、近比に至り、摂津住吉社を埃及波斯の塚穴堂に類すといふ説あり。其は古史を知らぬ人の誤想なり、住吉の三神は筑紫博多を本社とす、神功皇后征韓の還りに、務古水門 今の神戸付近 に建てられ、仁徳帝の比、墨江には創建せり、史学会雑誌に詳か也 三神社を並へ祠たる形の墓堂に似たるも、此地に表・中・底筒男の墓あるべきに非ず。余往年信濃上諏訪社に詣り、寳殿の様を見るに、甚墓堂に似たり、されども諏訪は健御名方命の領国にて、上諏訪社にて湖東を治め、下諏訪神社にて湖西を治めたる跡にて、その社を神名帳に南方富神社とあり、富は刀賣なり、健南方命の其女をして天神を斎かせしめしに因て称するならん、建築の様を望みて墓穴の堂と思ふは僻見なり。後に奥津棄戸の、風俗を述ふると并せ考ふべし。
神道に宋廟なし、大神宮を大廟と称するは、甚だしき誤謬なれども、世にかりそめに此く唱へる人もあり、韓土にも之に似たることあり、東国通鑑、〔百済始祖十七年 漢元壽元年といふ西暦紀元前二年 立国母廟〕とあるを熟考するに、我大神宮の如き宮と思はるれども、高麗の末になりては、此く誤解したるならん。我諸神社にも是に似たる誤解は甚多し、大国魂社・大神社等は、大己貴其人を祭るに非ず、大己貴命国を造り、其地に建たる社殿なり。すべての天社国社も同例なり、故に国造を国の宮つみと云、此は歴史の考究に甚肝要なることにて、古代国県の分割、造別受領の跡を徴すべし。例へば豊前国香春神社は、神名帳に、田川郡辛国息長大姫大目命神社、忍骨神社、豊比咩命神社とある三座にて、辛国は韓国なり、息長大姫大目命は以前の領主にて、忍穂耳尊新羅より渡り、此を行在として西国を征定せられ、後に豊姫の受領せし地と思はる。史学会雑誌第十一号星野氏の論説を参考 社殿は其政事堂也、土佐香美郡に天忍穂別神社あり、別は造別の別なり、紀景行帝の條に、〔当今之時。謂諸国之別者。即其別王之苗裔焉〕とあるにて知るべし、此も忍穂耳尊豊前より上洛の途次に、暫駐蹕ありし地なるべし。凡神社は古時国県の政事堂なり、神名帳大和に添御県坐神社、葛木御県神社、志貴御県坐神社、高市御県神社等あり、猶後世の郡家の如し、美濃に叉比奈守神社 厚見郡 あり、比奈守は、紀の景行帝の條に、〔巡狩筑紫国。始到夷守。 中略 乃遣兄夷守。弟夷守二人令覩。乃弟夷守還来而諮之。日諸県君泉媛〕 日向諸県郡 とある夷守に同し、魏志に〔到対馬国。其大官曰卑狗。副曰卑奴母離。云云。至一支国。 壱岐 官亦曰卑狗。副曰卑奴母離〕とあり、卑狗は彦なり、卑奴母離は比奈守なり、彦は後の荘司地頭の如く、比奈守は荘下司地頭代の如し、是其彦、某姫社、若くは夷守社等は、領主の建たる祭政一致の政事堂にて、某県社、其県坐神社と、其義一なり、又倭文・物部・服部・兵主・楯縫・玉造・鏡作等の神社は、各伴部の地に建た る社にて、久米郡・麻績郡・忌部村・鳥取村などと謂か如く、後世の荘衙に同し。前にもいふが如く、宗像社は、筑前風土記に據るに、天照大神の三女、筑紫に身形部を領し、鏡玉を表として、韓土往返の津に建たる三社なり、大和石上坐布留御魂神社は、垂仁帝の時に建られたる武庫にて、中に韴霊宝剣をも納めたれば、之を神体として、石上社を建たり、前條に挙たる天香山社は、神を祭る瓮を造る土を出す山なるを以て、往古より祠られたる社なり。常陸風土記に、鹿 島郡の鐵礦を鹿島社領として採堀を停めたるも、同し政略なるを知るべし、総て上古の神社は、皆此の如き原由にて、神魂・高魂社を始め、神代に国士を開きたる人の創建したる社と見れば、神名帳諸社の起りは氷釋すべし、盡く祭天の堂に外ならず。然るを其社号に泥みて祭神の名と誤るより、天神地紙の混雑を生じ、人鬼を祭る霊廟にまぎれ、神道の主旨乱れて、遂に謀反人の藤原廣嗣を松浦社に祭り、大臣の菅原遺眞を天満宮と崇めて、天子も膝を屈め給ふ、歴代の天子は一も神社に祭ることなきに、却て補佐大臣より一郡一巴 の長までも神に化するは、冠履倒装の甚しきなり、末世の拘忌より、狐を祠りて稲荷とし、蛇を祠りて市杵島姫とし、鼠を崇めて大已貴神と謂ふが如きは、凡下流俗の迷ひにて、論ずるに足らざれども、其弊端を啓きたるは、天神より強て地祇を別ちて、遂に人鬼を混淆し、此く乱れたるなり。仏法の入らぬ以前、陵墓に厚葬の風はあれども、人鬼を崇拝することなく、宗廟の祭もなく、惟大神を祭るを神道とす、是日本固有の風俗なり。  


神道に地祇なし
神は不浄を悪む





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.535-536
   1929(昭和4)年発行