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Shinto wa Saiten no Kozoku (Synopsis: Shinto is an Outmoded Custom)(神道は祭天の古俗)

by Kume Kunitake(久 米 邦 武)



祓除は古の政刑

神道は穢悪を悪む至て厳なる故に、秡除を行ひ、身を清浄にして神に事へるを大主旨とせり。上古神宮皇居を別たざりし時代に於て、朝廷の有様は、後の伊勢神宮の如きものなりと想像すべし。国造伴浩の分轄する国県の府治も、盡く其式に倣ひ、因て諸国に天社国社は設けたり、其天社国社に於て取扱ふ事は、年年新嘗祭 即後の氏神祭礼をなして報本の意を表し、秡除を行ひて攘災招福をなすに外ならず、故に臣民みな毎年農桑諸業より収めたる、粟米布帛等を撰みて神に奉納す、之をみつぎと云、後世に御初穂といふ是なり。災害若しくは罪過に因て、秡除の料を納むるをあがものと云。猶後の贖罪金の如し、朝廷国県の経済皆是にて立ち、刑罰も是に依りたり、是を祭政一致の治とするなり。秡除の起りは甚古し、諾冉二尊も筑紫橘小戸の秡除あり、魏志に〔詣水中澡浴〕と記す、並に前に出蓋し神道と共に邈古より来りたることなるべし。其法は中臣家に伝はる書紀一書 天石窟の條 に〔天兒屋命、則以神祝祝之〕と、叉〔掌其解除之大諄辭〕とあり、今の中臣秡は其諄辞にて、原文は簡古なりしを文武帝の朝に、柿本人麻呂修潤したる文なりと云、衆人の前にて、再三反覆し誦する詞に、甚古拙なる所あれば、人の誠敬を損する故なるべし 神の供物は斎部家にて掌る、古語拾遺に、〔命太王命率諸部神造和幣〕と、叉〔宜太王命率諸部神供奉其職如天上儀〕 天上は天朝の義と見るべし とありて、叉神武の朝に〔其裔孫天富命率供作諸氏造作大幣〕と叉〔宮内立蔵。令斎部氏永住其職〕とある等にて見るべし。神宮皇居の別れたる後は、調貢の法も改まりて、此蔵は斎蔵・内蔵・大芸の三蔵に分れ、大宝令に大蔵省あり、内蔵寮あり、叉斎蔵は神祇官にありて、祓除の贖物を約めたるなるべし。
祓除の主旨は、支礼を清め、心を清め、清浄なる天地に呼吸するに非ざれば、霊験なる天神の加護を蒙り得ずとの旨なり。是宗教の善根懺悔に近し、されども此旨につきて別に心身を清くする教文もなく、因て世に誘善利生の方を述べたる教典もなし、本居宣長は神ながら言挙せぬ図と誇れども、言挙せぬにて神道宗教をなす程の力なきこと明かなり。而して右に説たる如く、古は秡除を政治の本となし、刑罰も是に因て行へり、素戔鳴尊神の、御田に重播、毀畔、 埋溝、挿籤したるうへに、大嘗殿を穢し、重々の罪を犯したるは、神道破滅を主張したる所為にて、天照大神も御位を遜れんとするに至りしに、諸大臣等盡く服せす、天安河の会議にて、大神の復位を勧め、素戔鳴尊に重罪を科したるは、是国是一定して、皇室の安固したる根拱なり。国史に於て最重最要の節にて、神道の最功力ある 処とす。此時尊に〔科之以千座置戸〕とは、釋日本紀に、〔私記曰。座是置物之名也。言置積秡物者。正是千処也。置戸者。是積置此千処之物。便為其戸。令罪人出其中。故云置戸也〕と釋せり。余は千処の斎蔵を科したるにて、戸は烟戸のことならんと思ふなり 又〔至拔髪以贖其罪。亦日拔其手足之爪贖之〕とあるは、亦曰の文を是とすべし、其は一書に〔已而科罪於素戔鳴尊。而責其秡。是以有手端吉棄物。足端凶棄物とも、又〔即科素戔鳴尊千座置戸之解除。以手爪為吉爪棄物。以足爪為凶爪棄物。乃使天兒屋命、掌其解除之大諄辞而宣之焉。 是は中臣氏の記録に據たる者と覚へたり斎部氏の記録を并せ考ふれば、其贖物は彼氏の斎蔵に納むべし 世人慎収己爪者此其縁也〕とあるに合へばなり。古より貴人には死刑を行ひたる例なし、蓋解除の科に軽重の差等あるまでのことなるべし、其解除には必ず吉凶の両ツを重科す、紀の履仲帝五年に、〔則負悪解除・善解除。而出於長渚崎令秡禊〕と見え、三代格延暦二十年五月十四日に至りて、太・中・小秡の物を定めらる、其詔に〔承前。神事有犯。科秡贖罪。善悪二秡。重科一人。條例己繁。輸物亦多。事傷苛細。深損黎元。仍今弛張立例〕とあれば、平安京の初めに至り、始めて両科を一重に改められたり。


神は不浄を悪む
神道の弊





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.538-539
   1929(昭和4)年発行