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Shintosha Shoshi ni Tsugu (To Certain Shintoist Gentlemen) (神道者諸氏に告ぐ)

by Taguchi Ukichi (田 口 卯 吉)



   神道者諸氏に告ぐ

                                                                                                         田 口 卯 吉    

久米邦武氏が「神道は祭天の古俗」と題してものせられたる一文は実に古人未発の意見にして、余の最も敬服する所なりき。是を以て余は之を我史海に掲載し、世人をして成るべく之を一読せしめんことを欲し、特に神道者諸氏をして熟読の上之れに対して其意見を表白せしめんことを望めり。
然る所以のものは何ぞ、余は我邦神代の諸事は尚ほ学士に向ひて十分に研究の餘地を存するありと認めたればなり。余は我邦に於て神代の諸事を最も綿密に研究せるものは神道者に多しと推定したればなり。余は我邦の神道者は必ず喜びて久米氏を迎へ、共に眞正の事実を世に顕はすことを勉むるなるべしと信じたればなり。
此點に於て余は先づ弁明せざるべからざる一事あり、余は耶蘇教信者にあらざること是なり。余は嘗て信者の一人たりしことあり、然れども、数年前に於て既に退会したり。故に余は異宗の故を以て神道を敵硯し、之を破壊せんと欲するものなりとの邪推は切に御免を蒙むらざるべからず。然るを況んや皇室の尊厳を打破し奉らんとするの邪推に於てをや。余と雖も憚りながら日本国の一民なり、国家萬一の場合に於て瘠腕たりとも国家の干城たるに於て、未だ必ずしも神道者諸氏の後にあらざることを期するものなり。憚りながら余輩武夫は斯る場合に於ては往時の神道者流か天神地祇を祭りて恐敵退散を祈りしが如き方法を以て忠義の極意とは認めざるものなり。余は久米氏も必ず此鮎に於ては余と同一の人なることを保證するものなり、余は久米氏の文に於て一鮎も神道を敵視したるの意志を発見せず、叉た久米氏の位地と従来の履歴とに徴するに氏は断じて皇室に対し不敬の文字を陳列するの意志ある者にあらざるを知るなり。鳴呼豈に久米氏のみならんや、此の如き愚見は今日に当りて日本国中第一等の癲狂者を誘ひ来るも之を口にし之を筆にするものあらんや。
唯々問題は日本古代の歴史の研究は今日の儘に放擲して可なるやと云へること是也。本居平田等が古事付けたる解釈(或る反対者が余を許したる語を借用す)の他に今日の人民は新説を出すべからざるや否や是なり。新説を出せば皇室に不敬なるや否や是れなり。鳴呼余は之を信ぜざるなり、余は固く信ず。日本人民は随意に古史を研究するも皇国に対し不敬に渉らざることを、余は固く信ず、神代の諸神は霊妙なる神霊とならずして、吾人と同一なる人種則ち飯も喰ひ水も飲み踊りも踊り夢も見玉へるものとなるも、決して国体を紊乱するものにあらざることを、余は固く信ず。皇室を敬し国家を愛するの気は、彼の本居平田等の如く単に古事記の語義を尋思して研究するよりも、広く人種、風俗、言語、器物等に就いて研究するの間に於て盛に発揮すべきことを、余は固く信ず。平田等が霊の真柱に於て述ぶる所の造化三神の説は耶蘇の三位一体の説に類し、吾人をして信ぜしむるに足らざることを。余は固く信ず、若し此の如き舊説の外に新説を発表するは紊乱するものなりと云ふのが如きあらは、有識の人物は復た古史を繙くなきに至らんことを。見よや、彼の水戸の義公が古史を随意に研究したるを見よや。思うに 公の皇室を重んじ国家を愛したることは、神道者諸氏の洽く首肯する所ならん。然りと雖も公は大日本史に於て神道者諸氏が最も尊信する所の神代史を抹殺し去りしにあらずや。其神武天皇紀中に神代の事を記する所ありと雖も、造化三神も国常立尊も神異不測の四語を以て抹殺せられたるにあらずや。今神道者諸氏か久米氏を責むるを見るに、曰く、天御中主神以後一系連綿たる皇統も架空の説に帰すべきなりと。然れば大日本史が全く之を抹殺し去れるは如何、假令想像たりと雖も自ら信ずべき部分を執りて之を記するは尚ほ信用を存すと云ふべし。神異不測として抹殺するに至りては、復た諸氏が国祖とする所の神名をだに知るべからず、諸氏之を何と云ふや。諸氏が皇室の尊厳を損し、国体の秩序を紊乱すと云ふは、恐くは久米氏にあらずして水戸義公にあらざるなき乎。
余が歴史を研究するの方法は諸氏と異なり、余は大日本史と同く信ずべからざるものを抹殺するなり。久米氏と同じく筍も信ずべきものあらば之を採擇するなり、余は之を以て皇室に忠に国家に愛なるものと信ずるなり。夫れ史家の邦国に於ける猶ほ忠臣の其君に於けるが如し、事々物々君意是れ奉ずる必しも忠義にあらず、頌言美辞是れ記する必しも良史にあらず。支那に於ては堯舜禹湯文武周公の如き賢君、若しくは桀紂の如き悪君の世を経て春秋と云へる乱臣賊子の方に其暴横を逞うせる時代、西洋に於てはバビロン、アスシリヤ、フヒニシヤ、埃及等の文明を経過し、希臘、諸国互に相攻戦せし時代に当りて、東海の一孤島なる日米帝国は尚ほ神霊の坐せし時代なりと称するも、決して国体をして貴からしむるに足らず。故に余は神代を研究するに当りて勉めて吾人の祖先は吾人と同一なる人種なりとの主義を執るなり、余は却て之を以て国史を改良するものにして、実に皇室に忠に、国家に愛なるものと信ずるなり。
然りと雖も余は敢て神代の尊命達を以てカミにめらずと云ふにあらざるなり。舊史を案ずるに神代の尊命達は、申すに及ばず、神武以後と雖も自ら称して「カミ」と云へるもの多し。万葉集の諸歌を閲するに、天智、天武の如きも「クニツミカミ」と称せられたり、思うに時世の悠遠に従ひ古代偉人の神霊に近邇するは各国皆な然り。然れども我邦の如きは「カミ」と云へる語を以て神祇の二字を配せしより、上古の尊命皆神霊と成れるにあらずや。若し夫れ我舊紀にして是非とも神代の尊命は神霊の如く解釈せざるべからざる義あらば、余と雖も敢て好みて異論を立つるものにあらずと雖も、我舊紀は尊命達を以て吾人と同一なる人種なり、即ち吾人の祖先なりと解釈するも差支えなし。何ぞ殊更に平田等の解釈を遵奉することを是れ為さんや。余輩は古事記の解釈に於て斯く自由なる主義を有するのみならず、古事記其物の本文と雖も、字々句々皆な眞事実を記するものなりとは信ずる能はざるなり。此点に於ては余は先づ神道者諸氏に向ひ古事記の編輯如何にして成りしやを述べざるべからず。是れ古事記の序文を研究するに如くなし、曰く、

於是天皇詔之、朕聞諸家之所資帝紀及本辞、既遠正実、多
 加虚偽、当今之時、不改其失、未経幾歳、其旨欲減、故
 惟撰録帝紀、討覈舊辞、削偽定実、欲流後葉、時有舍人
 姓稗田、名阿礼、年是廿八、為人聡明、度目誦口、拂耳勒
 心、即勅語阿礼、今誦習帝皇日継及先代舊辞、然運移世異、未
 行其実矣、伏惟皇帝陛下、得一光宅、通三享省、(中略)於
 焉惜舊辞之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔
 臣安麻侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語舊辞、以献上者云々、

此文を熟視せば一は以て古事記の成る所以を知るべく、一は以て古事記に対して幾何の信用を置きて可なるやを知るべし。蓋し我邦に於ては皇室を始め、朝廷名族の諸氏に於て皆な知るべからざるの古代より、口々に相伝へたる舊辞ありしなり、推古天皇の二十八年に至り聖徳太子は蘇我馬子と共に、天皇記及び国記、臣連、伴造、国造、百八十部并公民等の本記に録し給へり、是れ蓋し皇室及諸家に伝へたる舊辞に因て之を輯録したるなり。説者曰く、是れ則ち今日伝ふる所の舊辞記なりと、或は然らん。去れば是より以後一方には漢文にて綴れる歴史あり、一方には口々に伝へたる舊辞ありしなり。 天武天皇は則ち其口に伝へたる舊辞を訂正撰録せんと企て給へるなり。 天皇の勅に見るに或ひは曰く、既に正実に違ふと、或ひほ曰く偽を削り実を定むと、当時舊辞の紊乱したりしを知るべし。夫れ聖徳太子蘇我馬子の時より以後既に一方に漢文の歴史あり、然るも尚ほ虎偽を伝へたり。然らば則ち知るべからざるの古代より聖徳太子及馬子の時に至るまで、口々相伝へたる舊辞に虚偽なきことを保證し得べきや否や。且つ又た聖徳太子と馬子とは果して正当なる歴史眼を備へたるものなりしや否や。然り而して天武天皇は討覈舊辞とあれは、此等の歴史及び諸家の口誦を討覈し口づから稗田阿礼に教え給へるなり、 天武天皇の討覈は果して一々其当を得たりとするも、稗田阿礼が此勅語舊辞を 天皇より承りてより和銅四年に至るまで二十餘年を経たり。
一字一句能く忘却するなかりしや否や。然り而して太安麿亦之を 撰録すと云へば、多少取捨せしなるべし、殊に其序文中左の文あり、 曰く亦於姓日下、謂玖沙訶、於名帯字、謂多羅斯如此之類隨。 本不改、と然らば則ち古事記撰銭の時亦た旧本に據りしなり。其 旧本とは必ず聖徳太子馬子等の撰録せしものならざるべからず、而 して安麿の史論に至りては余は最も不賛成を表すものなり、夫れ壬 生の一乱は其事情実に錯雑すと雖も、弘文既に即位し給ひし後に至 りて、天武兵を興して之を弑し天位に即き給ひしを見れば、其正非 知るべきのみ。然るに安麿は此変を記して曰く

杖矛挙威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦斯、

と云へり、夫れ正統の天子弘文の官軍を称して凶徒と云ふ、是れ実に阿世の小人なり。吾人何ぞ之を筆誅せざるを得んや。之に因りて之を恩へば古事記の原料は、第一に其君を殺し奉り、且つ神道を排斥したる蘇我馬子と、之を傍親し給へる聖徳太子の撰録を経。第二 に一たび剃髪して沙門となり、次ぎて弘文の天下を奪ひ給へる 天武天皇の討覈を経。而して阿世の小人安麿の撰録に成りしものと云はざるべからす。余今日古事記を見るに実に憑據すべきもの多し。故に余は其人を以てせずして其言を採ると雖も、事々之れを信ぜざれば国体を紊飢するが如きものとは信ぜざるなり。余は聖徳大子蘇我馬子若しくは 天武天皇太安麿の如く偽りを削り実を定むるの自由を有することを知るなり。而して余は神道家が斯る人物の手を経て成れる古事に対して非常に信用を置くことを怪まざる司らず。
余が古事記を見ること此の如くにして、而して其解釈に於ける彼れが如し。故に久米氏が新論を吐かるゝに当りては余は実に神道家諸氏は十分に自己の信ずる事実を挙げて、之を辯駁するなるべしと信じたるなり。然るに今日まで世に顕はれたる所にては単に「国家の秩序を紊乱するものなり、皇室の威厳を損するものなり、大学教授に不適任なり」と云ふに止まるが如し。是れ余の大に感服する能はざる所なり、抑も久米氏の論文は其後治安に妨害ありとの主意を以て発売を禁ぜられたり。而して其身も亦た非職を命ぜられたり。故に諸氏の意見も政府に貴徹したるなるべし。然れども諸氏の国家に立つは教理と條理とを以て立つものならずや、諸氏は決して国家の秩序と皇室の尊厳とを保つべきの職任あるにあらず。然らば則ち久米氏の議論を辯駁せんと欲するに於ては、筆を執りて一々證を挙げ其誤謬を指摘するのみにして可なり。荘子曰、庖人雖不治庖、戸祝不越樽爼而代之と、今まや政府国家の秩序と皇室の尊厳とを保つに於て未だ嘗て其職を失はざるに諸氏先づ之を諭ず、是れ尸祝樽爼を越ゆるに類せずや。余や敢て久米氏と徹頭徹尾意見を同うするものにあらず然りと雖も、博識高才なる氏にして此の如き新論を出すに当りて、之を叩きて以て古史を討究するは、天下の大快事なりと信じたるが為めに、之を神道家諸氏に紹介したりしなり。然るに諸氏之を受けず却て之を称して国体の秩序を紊乱し皇室の尊厳を毀損すと云ふ。抑も何等の挙動ぞや、鳴呼苟も上古の尊達を以て神霊なりと信せずんば、国体の秩序を紊乱し皇室の尊厳を毀損するものなりと云はゞ、日本の神道は殆んど羅馬教の千六百年代に於けるが如くなり、余輩新説を唱ふもの皆な異端たらんのみ。余輩豈に古史研究の自由を唱へて、彼の神道者着流の之を忌むものを諭さゞるを得んや、思ふに彼輩にして古事記の性質を知るあらば、庶幾くば大に覚知する所あらん乎。


(尾佐竹 猛 校)


神道者諸君に告ぐ    終





底本:『明治文化全集』[吉野作造編]第15巻 思想篇、日本評論社、pp.543-547
   1929(昭和4)年発行